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| 「友よ、[[adukkhamasukha|不苦不楽]]の[[cetovimutti|心解脱]]の[[samāpajjati|到達]]のために、四つの[[paccaya|縁]]があります。\\ | 「友よ、[[adukkhamasukha|不苦不楽]]の[[cetovimutti|心解脱]]の[[samāpajjati|到達]]のために、四つの[[paccaya|縁]]があります。\\ | ||
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| - | 友よ、ここに比丘は[[sukha|楽]]の[[pahāna|断]]により、[[dukkha|苦]]の[[pahāna|断]]により、これまでの[[somanassa|嬉]]・[[domanassa|心苦]]のまさに[[atthaṅgama|消滅]]により、[[adukkhamasukha|不苦不楽]]の・[[parisuddha|遍浄]]な[[upekkhati|捨]]と[[sati|念]]ある[[catutthajhāna|第四禅]]を[[upasampajjati|成就]]して住します。\\ | + | 友よ、ここに比丘は[[sukha|楽]]の[[pahāna|断]]により、[[dukkha|苦]]の[[pahāna|断]]により、これまでの[[somanassa|嬉]]・[[domanassa|憂]]のまさに[[atthaṅgama|消滅]]により、[[adukkhamasukha|不苦不楽]]の・[[parisuddha|遍浄]]な[[upekkhati|捨]]と[[sati|念]]ある[[catutthajhāna|第四禅]]を[[upasampajjati|成就]]して住します。\\ |
| 友よ、[[adukkhamasukha|不苦不楽]]の[[cetovimutti|心解脱]]の[[samāpajjati|到達]]のために、これらの四つの[[paccaya|縁]]があります」と。\\ | 友よ、[[adukkhamasukha|不苦不楽]]の[[cetovimutti|心解脱]]の[[samāpajjati|到達]]のために、これらの四つの[[paccaya|縁]]があります」と。\\ | ||
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| 行 29: | 行 29: | ||
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| 「友よ、この[[appamāṇa|無量]]の[[cetovimutti|心解脱]]、[[ākiñcañña|無所有]]の[[cetovimutti|心解脱]]、[[suññata|空性]]の[[cetovimutti|心解脱]]、[[animitta|無相]]の[[cetovimutti|心解脱]]。\\ | 「友よ、この[[appamāṇa|無量]]の[[cetovimutti|心解脱]]、[[ākiñcañña|無所有]]の[[cetovimutti|心解脱]]、[[suññata|空性]]の[[cetovimutti|心解脱]]、[[animitta|無相]]の[[cetovimutti|心解脱]]。\\ | ||
| - | これらの[[dhamma|法]]は、[[attha|意味]]も異なり[[vyañjana|文字]]も異なるのか、あるいは[[attha|意味]]はひとつで[[vyañjana|文字]]だけが異なるのですか?」と。\\ | + | これらの[[dhamma|法]]は、[[attha|意味]]も異なり[[vyañjana|表現]]も異なるのか、あるいは[[attha|意味]]はひとつで[[vyañjana|表現]]だけが異なるのですか?」と。\\ |
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| 「友よ、この[[appamāṇa|無量]]の[[cetovimutti|心解脱]]、[[ākiñcañña|無所有]]の[[cetovimutti|心解脱]]、[[suññata|空性]]の[[cetovimutti|心解脱]]、[[animitta|無相]]の[[cetovimutti|心解脱]]。\\ | 「友よ、この[[appamāṇa|無量]]の[[cetovimutti|心解脱]]、[[ākiñcañña|無所有]]の[[cetovimutti|心解脱]]、[[suññata|空性]]の[[cetovimutti|心解脱]]、[[animitta|無相]]の[[cetovimutti|心解脱]]。\\ | ||
| - | 友よ、その[[pariyāya|理]]によるならば、これらの[[dhamma|法]]が[[attha|意味]]も異なり[[vyañjana|文字]]も異なるような[[pariyāya|理]]があり、\\ | + | 友よ、その[[pariyāya|理]]によるならば、これらの[[dhamma|法]]が[[attha|意味]]も異なり[[vyañjana|表現]]も異なるような[[pariyāya|理]]があり、\\ |
| - | また友よ、その[[pariyāya|理]]によるならば、これらの[[dhamma|法]]が[[attha|意味]]はひとつで[[vyañjana|文字]]だけが異なるような[[pariyāya|理]]があります。\\ | + | また友よ、その[[pariyāya|理]]によるならば、これらの[[dhamma|法]]が[[attha|意味]]はひとつで[[vyañjana|表現]]だけが異なるような[[pariyāya|理]]があります。\\ |
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| - | では友よ、その[[pariyāya|理]]によるならば、これらの[[dhamma|法]]が[[attha|意味]]も異なり[[vyañjana|文字]]も異なるような[[pariyāya|理]]とは何でしょうか?\\ | + | では友よ、その[[pariyāya|理]]によるならば、これらの[[dhamma|法]]が[[attha|意味]]も異なり[[vyañjana|表現]]も異なるような[[pariyāya|理]]とは何でしょうか?\\ |
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| 友よ、ここに比丘は[[metta|慈しみ]]を伴う[[citta|心]]をもって一方向に行き渡らせて住します。そのように第二(方向)に、そのように第三(方向)に、そのように第四(方向)に。\\ | 友よ、ここに比丘は[[metta|慈しみ]]を伴う[[citta|心]]をもって一方向に行き渡らせて住します。そのように第二(方向)に、そのように第三(方向)に、そのように第四(方向)に。\\ | ||
| かくして上・下・横に、あらゆる方向に、あまねく全[[loka|世界]]に、広大・[[appamāṇa|無量]]の大いなる、[[vera|怨み]]なく[[vyābādha|加害]]なき、[[metta|慈しみ]]を伴う[[citta|心]]をもって、行き渡らせて住します。\\ | かくして上・下・横に、あらゆる方向に、あまねく全[[loka|世界]]に、広大・[[appamāṇa|無量]]の大いなる、[[vera|怨み]]なく[[vyābādha|加害]]なき、[[metta|慈しみ]]を伴う[[citta|心]]をもって、行き渡らせて住します。\\ | ||
| - | [[karuṇā|憐憫]]ある[[citta|心]]をもって … 中略 …\\ | + | [[karuṇā|憐憫]]を伴う[[citta|心]]をもって … 中略 …\\ |
| [[muditā|喜]][[citta|心]]ある[[citta|心]]をもって …\\ | [[muditā|喜]][[citta|心]]ある[[citta|心]]をもって …\\ | ||
| [[upekkhati|平静]]なる[[citta|心]]により一方向に行き渡らせ住する。そのように第二(方向)に、そのように第三(方向)に、そのように第四(方向)に。\\ | [[upekkhati|平静]]なる[[citta|心]]により一方向に行き渡らせ住する。そのように第二(方向)に、そのように第三(方向)に、そのように第四(方向)に。\\ | ||
| 行 61: | 行 61: | ||
| ここに比丘は、一切の[[nimitta|特相]]の不[[manasikāra|作意]]により[[animitta|無相]]の[[cittasamādhi|心定]]を[[upasampajjati|成就]]して住します。\\ | ここに比丘は、一切の[[nimitta|特相]]の不[[manasikāra|作意]]により[[animitta|無相]]の[[cittasamādhi|心定]]を[[upasampajjati|成就]]して住します。\\ | ||
| 友よ、これが[[animitta|無相]]の[[cetovimutti|心解脱]]と言われます。\\ | 友よ、これが[[animitta|無相]]の[[cetovimutti|心解脱]]と言われます。\\ | ||
| - | 友よ、これが、その[[pariyāya|理]]によるならば、これらの[[dhamma|法]]が[[attha|意味]]も異なり[[vyañjana|文字]]も異なるような[[pariyāya|理]]です。\\ | + | 友よ、これが、その[[pariyāya|理]]によるならば、これらの[[dhamma|法]]が[[attha|意味]]も異なり[[vyañjana|表現]]も異なるような[[pariyāya|理]]です。\\ |
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| - | では友よ、その[[pariyāya|理]]によるならば、これらの[[dhamma|法]]が[[attha|意味]]はひとつで[[vyañjana|文字]]だけが異なるような[[pariyāya|理]]とは何でしょうか?\\ | + | では友よ、その[[pariyāya|理]]によるならば、これらの[[dhamma|法]]が[[attha|意味]]はひとつで[[vyañjana|表現]]だけが異なるような[[pariyāya|理]]とは何でしょうか?\\ |
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| 友よ、[[rāga|貪]]は量れる((無量:appamāṇāの対義語です。))もので、[[dosa|瞋]]は量れるもので、[[moha|痴]]は量れるものです。\\ | 友よ、[[rāga|貪]]は量れる((無量:appamāṇāの対義語です。))もので、[[dosa|瞋]]は量れるもので、[[moha|痴]]は量れるものです。\\ | ||
| 行 77: | 行 77: | ||
| 友よ、[[animitta|無相]]の[[cetovimutti|心解脱]]に限っては、それらのうち[[kuppati|揺るぎ]]なき[[cetovimutti|心解脱]]が最上と告げられます。\\ | 友よ、[[animitta|無相]]の[[cetovimutti|心解脱]]に限っては、それらのうち[[kuppati|揺るぎ]]なき[[cetovimutti|心解脱]]が最上と告げられます。\\ | ||
| しかしその[[kuppati|揺るぎ]]なき[[cetovimutti|心解脱]]は、[[rāga|貪]]により[[suñña|空]]であり、[[dosa|瞋]]により[[suñña|空]]であり、[[moha|痴]]により[[suñña|空]]です。\\ | しかしその[[kuppati|揺るぎ]]なき[[cetovimutti|心解脱]]は、[[rāga|貪]]により[[suñña|空]]であり、[[dosa|瞋]]により[[suñña|空]]であり、[[moha|痴]]により[[suñña|空]]です。\\ | ||
| - | 友よ、これが、その[[pariyāya|理]]によるならば、これらの[[dhamma|法]]が[[attha|意味]]はひとつで[[vyañjana|文字]]だけが異なるような[[pariyāya|理]]です」と。\\ | + | 友よ、これが、その[[pariyāya|理]]によるならば、これらの[[dhamma|法]]が[[attha|意味]]はひとつで[[vyañjana|表現]]だけが異なるような[[pariyāya|理]]です」と。\\ |
| サーリプッタ尊者は、こう言った。\\ | サーリプッタ尊者は、こう言った。\\ | ||
| 意に適ったマハーコッティカ尊者は、サーリプッタ尊者の所説に[[abhinandati|歓喜]]したという。\\ | 意に適ったマハーコッティカ尊者は、サーリプッタ尊者の所説に[[abhinandati|歓喜]]したという。\\ | ||
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