mn47
差分
このページの2つのバージョン間の差分を表示します。
| 両方とも前のリビジョン前のリビジョン次のリビジョン | 前のリビジョン | ||
| mn47 [2026/01/06 07:26] – h1roemon | mn47 [2026/03/05 16:30] (現在) – h1roemon | ||
|---|---|---|---|
| 行 55: | 行 55: | ||
| 比丘たちよ、正しく[[byākata|解答]]する比丘はこのように[[byākata|解答]]するだろう、\\ | 比丘たちよ、正しく[[byākata|解答]]する比丘はこのように[[byākata|解答]]するだろう、\\ | ||
| 『なぜなら、この尊者は[[saṅgha|僧伽]]に住するか一人で住しているが、そこには[[sugata|善逝]]([[kalyāṇa|善]]に至る者)たち、そこには悪に至る者たち、そこには会衆を指導する者たち、そこには[[āmisa|物質の]]なかに見られる一部の者たち、そこには物質により汚されない一部の者たちがいるが、この尊者は、それにより彼を否定しないから。\\ | 『なぜなら、この尊者は[[saṅgha|僧伽]]に住するか一人で住しているが、そこには[[sugata|善逝]]([[kalyāṇa|善]]に至る者)たち、そこには悪に至る者たち、そこには会衆を指導する者たち、そこには[[āmisa|物質の]]なかに見られる一部の者たち、そこには物質により汚されない一部の者たちがいるが、この尊者は、それにより彼を否定しないから。\\ | ||
| - | また私は世尊のもとでこれを聞き、面前で[[paṭigaṇhati|拝受]]した、\\ | + | また私は世尊のもとでこれを聞き、面前で[[paṭigaṇhati|受け取]]った、\\ |
| ”私は[[bhaya|恐怖]]ゆえに抑制されたのでなく、私は[[abhaya|無畏]]ゆえに抑制されている。[[kāma|欲]]への[[rāga|貪]]性を離れたゆえ、[[rāga|貪]]の[[khaya|尽滅]]ゆえに親しまない。”』と。\\ | ”私は[[bhaya|恐怖]]ゆえに抑制されたのでなく、私は[[abhaya|無畏]]ゆえに抑制されている。[[kāma|欲]]への[[rāga|貪]]性を離れたゆえ、[[rāga|貪]]の[[khaya|尽滅]]ゆえに親しまない。”』と。\\ | ||
| 比丘たちよ、そのときこそ[[tathāgata|如来]]はさらに[[paṭipucchā|問い返]]されるべきである。\\ | 比丘たちよ、そのときこそ[[tathāgata|如来]]はさらに[[paṭipucchā|問い返]]されるべきである。\\ | ||
| 行 80: | 行 80: | ||
| 友よ、世尊は私に、さらにより上の、さらに優れた、黒白の対比ある[[dhamma|法]]を繰り返し示され、そのたびごとにそのように私はその[[dhamma|法]]を[[abhijānāti|証知]]して、そこで[[dhamma|諸法]]のなかの一部の[[dhamma|法]]の究竟に到り、師へ[[pasāda|浄信]]しました、\\ | 友よ、世尊は私に、さらにより上の、さらに優れた、黒白の対比ある[[dhamma|法]]を繰り返し示され、そのたびごとにそのように私はその[[dhamma|法]]を[[abhijānāti|証知]]して、そこで[[dhamma|諸法]]のなかの一部の[[dhamma|法]]の究竟に到り、師へ[[pasāda|浄信]]しました、\\ | ||
| 世尊は[[sammāsambuddha|正等覚者]]であり、世尊により[[dhamma|法]]はよく説かれ、[[saṅgha|僧伽]]はよく[[paṭipadā|行道]]する』と。\\ | 世尊は[[sammāsambuddha|正等覚者]]であり、世尊により[[dhamma|法]]はよく説かれ、[[saṅgha|僧伽]]はよく[[paṭipadā|行道]]する』と。\\ | ||
| - | 比丘たちよ、およそ誰であれ、その者には、これらの[[ākāra|様相]]、これらの句、これらの[[vyañjana|文字]]によって[[tathāgata|如来]]に[[saddhā|信]]が[[nivisati|留ま]]り、[[mūla|根]]が生じ[[patiṭṭhita|確立]]するなら、比丘たちよ、この者は[[ākāra|様相]]ある[[saddhā|信]]ある[[dassana|見]]による[[mūla|根]]ある堅固者、\\ | + | 比丘たちよ、およそ誰であれ、その者には、これらの[[ākāra|様相]]、これらの句、これらの[[vyañjana|表現]]によって[[tathāgata|如来]]に[[saddhā|信]]が[[nivisati|留ま]]り、[[mūla|根]]が生じ[[patiṭṭhita|確立]]するなら、比丘たちよ、この者は[[ākāra|様相]]ある[[saddhā|信]]ある[[dassana|見]]による[[mūla|根]]ある堅固者、\\ |
| 沙門、婆羅門、天、[[māra|魔]]、[[brahmā|梵天]]、あるいは[[loka|世界]]の誰によっても制御されない者と呼ばれる。\\ | 沙門、婆羅門、天、[[māra|魔]]、[[brahmā|梵天]]、あるいは[[loka|世界]]の誰によっても制御されない者と呼ばれる。\\ | ||
| 比丘たちよ、このように[[tathāgata|如来]]についての[[dhamma|法]]の[[samanvesati|捜索]]がある。\\ | 比丘たちよ、このように[[tathāgata|如来]]についての[[dhamma|法]]の[[samanvesati|捜索]]がある。\\ | ||
mn47.1767652012.txt.gz · 最終更新: by h1roemon
