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行 102: 行 102:
  比丘たちよ、これが[[sammākammanta|正業]]と呼ばれる。\\  比丘たちよ、これが[[sammākammanta|正業]]と呼ばれる。\\
  それでは比丘たちよ、[[sammāājīva|正命]]とは何か?\\  それでは比丘たちよ、[[sammāājīva|正命]]とは何か?\\
- 比丘たちよ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は[[micchājīva|邪命]]を[[pahāna|]]て[[sammāājīva|正命]]により[[jīvita|生活]]を営む。\\+ 比丘たちよ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は[[micchājīva|邪命]]を[[pahāna|捨て去]]て[[sammāājīva|正命]]により[[jīvita|生活]]を営む。\\
 \\ \\
  比丘たちよ、これが[[sammāājīva|正命]]と呼ばれる。\\  比丘たちよ、これが[[sammāājīva|正命]]と呼ばれる。\\
行 114: 行 114:
  比丘たちよ、これが[[sammāvāyāma|正精進]]と呼ばれる。\\  比丘たちよ、これが[[sammāvāyāma|正精進]]と呼ばれる。\\
  それでは比丘たちよ、[[sammāsati|正念]]とは何か?\\  それでは比丘たちよ、[[sammāsati|正念]]とは何か?\\
- 比丘たちよ、ここに比丘は[[kāya|身]]における[[kāya|身]][[anupassati|随観]]者として熱心に[[sampajāna|意識的]]に[[satimā|念を具え]]て住し、[[loka|世間]]への[[abhijjhā|羨望]]と[[domanassa|憂]]を[[vinaya|調伏]]する。\\ + 比丘たちよ、ここに比丘は[[kāya|身]]における[[kāya|身]][[anupassati|随観]]者として熱心に[[sampajāna|意識的]]に[[satimā|念を具え]]て住し、[[loka|世間]]における[[abhijjhā|羨望]]と[[domanassa|憂]]を[[vinaya|調伏]]する。\\ 
- [[vedanā|諸受]]における[[vedanā|受]][[anupassati|随観]]者として熱心に[[sampajāna|意識的]]に[[satimā|念を具え]]て住し、[[loka|世間]]への[[abhijjhā|羨望]]と[[domanassa|憂]]を[[vinaya|調伏]]する。\\ + [[vedanā|諸受]]における[[vedanā|受]][[anupassati|随観]]者として熱心に[[sampajāna|意識的]]に[[satimā|念を具え]]て住し、[[loka|世間]]における[[abhijjhā|羨望]]と[[domanassa|憂]]を[[vinaya|調伏]]する。\\ 
- [[citta|心]]における[[citta|心]][[anupassati|随観]]者として熱心に[[sampajāna|意識的]]に[[satimā|念を具え]]て住し、[[loka|世間]]への[[abhijjhā|羨望]]と[[domanassa|憂]]を[[vinaya|調伏]]する。\\ + [[citta|心]]における[[citta|心]][[anupassati|随観]]者として熱心に[[sampajāna|意識的]]に[[satimā|念を具え]]て住し、[[loka|世間]]における[[abhijjhā|羨望]]と[[domanassa|憂]]を[[vinaya|調伏]]する。\\ 
- [[dhamma|諸法]]における[[dhamma|法]][[anupassati|随観]]者として熱心に[[sampajāna|意識的]]に[[satimā|念を具え]]て住し、[[loka|世間]]への[[abhijjhā|羨望]]と[[domanassa|憂]]を[[vinaya|調伏]]する。\\+ [[dhamma|諸法]]における[[dhamma|法]][[anupassati|随観]]者として熱心に[[sampajāna|意識的]]に[[satimā|念を具え]]て住し、[[loka|世間]]における[[abhijjhā|羨望]]と[[domanassa|憂]]を[[vinaya|調伏]]する。\\
  比丘たちよ、これが[[sammāsati|正念]]と呼ばれる。\\  比丘たちよ、これが[[sammāsati|正念]]と呼ばれる。\\
  それでは比丘たちよ、[[sammāsamādhi|正定]]とは何か?\\  それでは比丘たちよ、[[sammāsamādhi|正定]]とは何か?\\
行 159: 行 159:
  比丘たちよ、半月はさておき、\\  比丘たちよ、半月はさておき、\\
  比丘たちよ、誰であれこれら[[cattārosatipaṭṭhāna|四念処]]をこのように七日[[bhāvanā|修養]]するならば、彼には二つの[[phala|果]]のうちどちらかの[[phala|果]]が[[pāṭikaṅkha|予期]]される。[[diṭṭhadhamma|現法]]における[[aññā|開悟]]か、あるいは[[upādāna|取]]の残りがあるならば[[anāgāmī|不還]](果)である」と。\\  比丘たちよ、誰であれこれら[[cattārosatipaṭṭhāna|四念処]]をこのように七日[[bhāvanā|修養]]するならば、彼には二つの[[phala|果]]のうちどちらかの[[phala|果]]が[[pāṭikaṅkha|予期]]される。[[diṭṭhadhamma|現法]]における[[aññā|開悟]]か、あるいは[[upādāna|取]]の残りがあるならば[[anāgāmī|不還]](果)である」と。\\
-『比丘たちよ、これが[[satta|衆生]]の[[visuddhi|清浄]]のため、[[soka|悲]]・[[parideva|悲嘆]]の[[samatikkama|超越]]のため、[[dukkha|苦]]・[[domanassa|憂]]の[[atthaṅgama|消滅]]のため、[[ñāya|真理]]の[[adhigacchati|会得]]のため、[[nibbāna|涅槃]]の[[sacchikaroti|実証]]のための唯一の[[magga|道]]である。それはすなわち[[cattārosatipaṭṭhāna|四念処]]である』と。\\+『比丘たちよ、これが[[satta|衆生]]の[[visuddhi|清浄]]のため、[[soka|悲]]・[[parideva|悲嘆]]の[[samatikkama|超越]]のため、[[dukkha|苦]]・[[domanassa|憂]]の[[atthaṅgama|消滅]]のため、[[ñāya|筋道]]の[[adhigacchati|会得]]のため、[[nibbāna|涅槃]]の[[sacchikaroti|実証]]のための唯一の[[magga|道]]である。それはすなわち[[cattārosatipaṭṭhāna|四念処]]である』と。\\
 \\ \\
  かくしてそれが説かれたが、それはこれに[[paṭicca|縁りて]]説かれたのである」と。\\  かくしてそれが説かれたが、それはこれに[[paṭicca|縁りて]]説かれたのである」と。\\
mn10_3.1767652012.txt.gz · 最終更新: by h1roemon