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  比丘たちよ、もし比丘が惛沈・睡眠に[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれているなら、[[citta|心]]が[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれた者である。\\  比丘たちよ、もし比丘が惛沈・睡眠に[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれているなら、[[citta|心]]が[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれた者である。\\
  比丘たちよ、もし比丘が[[uddhacca-kukkucca|掉挙・悪作]]に[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれているなら、[[citta|心]]が[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれた者である。\\  比丘たちよ、もし比丘が[[uddhacca-kukkucca|掉挙・悪作]]に[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれているなら、[[citta|心]]が[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれた者である。\\
- 比丘たちよ、もし比丘が[[vicikicchā|い]]に[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれているなら、[[citta|心]]が[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれた者である。\\+ 比丘たちよ、もし比丘が[[vicikicchā|い]]に[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれているなら、[[citta|心]]が[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれた者である。\\
  比丘たちよ、もし比丘がこの[[loka|世界]]に関する[[cinteti|思考]]により探すなら、[[citta|心]]が[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれた者である。\\  比丘たちよ、もし比丘がこの[[loka|世界]]に関する[[cinteti|思考]]により探すなら、[[citta|心]]が[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれた者である。\\
  比丘たちよ、もし比丘が他の[[loka|世界]]に関する[[cinteti|思考]]により探すなら、[[citta|心]]が[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれた者である。\\  比丘たちよ、もし比丘が他の[[loka|世界]]に関する[[cinteti|思考]]により探すなら、[[citta|心]]が[[pariyuṭṭhāna|まとわり]]つかれた者である。\\
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  私の意は(四聖)[[sacca|諦]]の[[bodhi|覚り]]のためによく[[paṇidahati|定置]]されて(向けられて)いる』と。((saccānaṃと属格、複数形なので[[ariyasacca|四聖諦]]と解釈しました。))\\  私の意は(四聖)[[sacca|諦]]の[[bodhi|覚り]]のためによく[[paṇidahati|定置]]されて(向けられて)いる』と。((saccānaṃと属格、複数形なので[[ariyasacca|四聖諦]]と解釈しました。))\\
  これが彼の第一の、[[puthujjana|凡夫]]と共通しない、[[lokuttara|出世間]]の、[[ariya|聖]]なる、[[adhigacchati|会得]]された[[ñāṇa|智]]である。\\  これが彼の第一の、[[puthujjana|凡夫]]と共通しない、[[lokuttara|出世間]]の、[[ariya|聖]]なる、[[adhigacchati|会得]]された[[ñāṇa|智]]である。\\
- 比丘たちよ、そしてさらに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\+ 比丘たちよ、そしてさらに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\
 『いったい私は、この[[diṭṭhi|見]]を習熟し[[bhāvanā|修養]]し[[bahulīkaroti|多修]]し、各々で[[samatha|寂止]]を得、各々で[[nibbāti|鎮火]]を得ているだろうか?』\\ 『いったい私は、この[[diṭṭhi|見]]を習熟し[[bhāvanā|修養]]し[[bahulīkaroti|多修]]し、各々で[[samatha|寂止]]を得、各々で[[nibbāti|鎮火]]を得ているだろうか?』\\
  彼はこう[[pajānāti|了知]]する、\\  彼はこう[[pajānāti|了知]]する、\\
 『私はこの[[diṭṭhi|見]]を習熟し[[bhāvanā|修養]]し[[bahulīkaroti|多修]]し、各々で[[samatha|寂止]]を得、各々で[[nibbāti|鎮火]]を得ている』と。\\ 『私はこの[[diṭṭhi|見]]を習熟し[[bhāvanā|修養]]し[[bahulīkaroti|多修]]し、各々で[[samatha|寂止]]を得、各々で[[nibbāti|鎮火]]を得ている』と。\\
  これが彼の第二の、[[puthujjana|凡夫]]と共通しない、[[lokuttara|出世間]]の、[[ariya|聖]]なる、[[adhigacchati|会得]]された[[ñāṇa|智]]である。\\  これが彼の第二の、[[puthujjana|凡夫]]と共通しない、[[lokuttara|出世間]]の、[[ariya|聖]]なる、[[adhigacchati|会得]]された[[ñāṇa|智]]である。\\
- 比丘たちよ、そしてさらに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\+ 比丘たちよ、そしてさらに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\
 『いったいここ以外に、私が具えている[[diṭṭhi|見]]のような、そのような[[diṭṭhi|見]]を具えている他の沙門や婆羅門はいるのか?』と。\\ 『いったいここ以外に、私が具えている[[diṭṭhi|見]]のような、そのような[[diṭṭhi|見]]を具えている他の沙門や婆羅門はいるのか?』と。\\
  彼はこう[[pajānāti|了知]]する、\\  彼はこう[[pajānāti|了知]]する、\\
 『私が具えている[[diṭṭhi|見]]のような、そのような[[diṭṭhi|見]]を具えている他の沙門や婆羅門はここ以外にはいない』と。\\ 『私が具えている[[diṭṭhi|見]]のような、そのような[[diṭṭhi|見]]を具えている他の沙門や婆羅門はここ以外にはいない』と。\\
  これが彼の第三の、[[puthujjana|凡夫]]と共通しない、[[lokuttara|出世間]]の、[[ariya|聖]]なる、[[adhigacchati|会得]]された[[ñāṇa|智]]である。\\  これが彼の第三の、[[puthujjana|凡夫]]と共通しない、[[lokuttara|出世間]]の、[[ariya|聖]]なる、[[adhigacchati|会得]]された[[ñāṇa|智]]である。\\
- 比丘たちよ、そしてさらに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\+ 比丘たちよ、そしてさらに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\
 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような[[dhammatā|法性]]を具えた者になるが、私もそのような[[dhammatā|法性]]を具えているか?』と。\\ 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような[[dhammatā|法性]]を具えた者になるが、私もそのような[[dhammatā|法性]]を具えているか?』と。\\
  それでは比丘たちよ、[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はどのような[[dhammatā|法性]]を具えた者になるのか?\\  それでは比丘たちよ、[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はどのような[[dhammatā|法性]]を具えた者になるのか?\\
行 43: 行 43:
 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような[[dhammatā|法性]]を具えた者になるが、私もそのような[[dhammatā|法性]]を具えている』と。\\ 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような[[dhammatā|法性]]を具えた者になるが、私もそのような[[dhammatā|法性]]を具えている』と。\\
  これが彼の第四の、[[puthujjana|凡夫]]と共通しない、[[lokuttara|出世間]]の、[[ariya|聖]]なる、[[adhigacchati|会得]]された[[ñāṇa|智]]である。\\  これが彼の第四の、[[puthujjana|凡夫]]と共通しない、[[lokuttara|出世間]]の、[[ariya|聖]]なる、[[adhigacchati|会得]]された[[ñāṇa|智]]である。\\
- 比丘たちよ、そしてさらに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\+ 比丘たちよ、そしてさらに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\
 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような[[dhammatā|法性]]を具えた者になるが、私もそのような[[dhammatā|法性]]を具えているか?』と。\\ 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような[[dhammatā|法性]]を具えた者になるが、私もそのような[[dhammatā|法性]]を具えているか?』と。\\
  それでは比丘たちよ、[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はどのような[[dhammatā|法性]]を具えた者になるのか?\\  それでは比丘たちよ、[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はどのような[[dhammatā|法性]]を具えた者になるのか?\\
行 54: 行 54:
 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような[[dhammatā|法性]]を具えた者になるが、私もそのような[[dhammatā|法性]]を具えている』と。\\ 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような[[dhammatā|法性]]を具えた者になるが、私もそのような[[dhammatā|法性]]を具えている』と。\\
  これが彼の第五の、[[puthujjana|凡夫]]と共通しない、[[lokuttara|出世間]]の、[[ariya|聖]]なる、[[adhigacchati|会得]]された[[ñāṇa|智]]である。\\  これが彼の第五の、[[puthujjana|凡夫]]と共通しない、[[lokuttara|出世間]]の、[[ariya|聖]]なる、[[adhigacchati|会得]]された[[ñāṇa|智]]である。\\
- 比丘たちよ、そしてさらに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\+ 比丘たちよ、そしてさらに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\
 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような力量を具えた者になるが、私もそのような力量を具えているか?』と。\\ 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような力量を具えた者になるが、私もそのような力量を具えているか?』と。\\
  それでは比丘たちよ、[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はどのような力量を具えた者になるのか?\\  それでは比丘たちよ、[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はどのような力量を具えた者になるのか?\\
行 62: 行 62:
 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような力量を具えた者になるが、私もそのような力量を具えている』と。\\ 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような力量を具えた者になるが、私もそのような力量を具えている』と。\\
  これが彼の第六の、[[puthujjana|凡夫]]と共通しない、[[lokuttara|出世間]]の、[[ariya|聖]]なる、[[adhigacchati|会得]]された[[ñāṇa|智]]である。\\  これが彼の第六の、[[puthujjana|凡夫]]と共通しない、[[lokuttara|出世間]]の、[[ariya|聖]]なる、[[adhigacchati|会得]]された[[ñāṇa|智]]である。\\
- 比丘たちよ、そしてさらに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\+ 比丘たちよ、そしてさらに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\
 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような力量を具えた者になるが、私もそのような力量を具えているか?』と。\\ 『[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はこのような力量を具えた者になるが、私もそのような力量を具えているか?』と。\\
  それでは比丘たちよ、[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はどのような力量を具えた者になるのか?\\  それでは比丘たちよ、[[sammadiṭṭhi|正見]]を具えた者はどのような力量を具えた者になるのか?\\
行 71: 行 71:
  比丘たちよ、このように七[[aṅga|支分]]を具えた[[ariyasāvaka|聖弟子]]には、[[sotāpanna|預流]][[phala|果]]の[[sacchikaroti|実証]]のために、[[dhammatā|法性]]がよく[[samanvesati|捜索]]された者となる。\\  比丘たちよ、このように七[[aṅga|支分]]を具えた[[ariyasāvaka|聖弟子]]には、[[sotāpanna|預流]][[phala|果]]の[[sacchikaroti|実証]]のために、[[dhammatā|法性]]がよく[[samanvesati|捜索]]された者となる。\\
  比丘たちよ、このように七[[aṅga|支分]]を具えた[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、[[sotāpanna|預流]][[phala|果]]を具えたものとなる」と。\\  比丘たちよ、このように七[[aṅga|支分]]を具えた[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、[[sotāpanna|預流]][[phala|果]]を具えたものとなる」と。\\
- 世尊はこうおっしゃった。\\+ 世尊はこう言われた。\\
  意に適った彼ら比丘たちは、世尊の所説に[[abhinandati|歓喜]]したという。\\  意に適った彼ら比丘たちは、世尊の所説に[[abhinandati|歓喜]]したという。\\
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mn48_2.1760871248.txt.gz · 最終更新: by h1roemon