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| 「[[gahapati|居士]]よ、ここに比丘はひたすら[[kāma|諸欲]]から[[viveka|遠離]]して、[[akusala|不善]][[dhamma|諸法]]から[[viveka|遠離]]して、[[vitakka|尋]]あり[[vicāra|伺]]ある、[[viveka|遠離]]より生じた[[pīti|喜悦]]と[[sukha|楽]]ある[[paṭhamajjhāna|初禅]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | 「[[gahapati|居士]]よ、ここに比丘はひたすら[[kāma|諸欲]]から[[viveka|遠離]]して、[[akusala|不善]][[dhamma|諸法]]から[[viveka|遠離]]して、[[vitakka|尋]]あり[[vicāra|伺]]ある、[[viveka|遠離]]より生じた[[pīti|喜悦]]と[[sukha|楽]]ある[[paṭhamajjhāna|初禅]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | ||
| - | 彼はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | 彼は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『この[[paṭhamajjhāna|初禅]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。\\ | 『この[[paṭhamajjhāna|初禅]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。\\ | ||
| しかし何であれ[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたもの、それは[[anicca|無常]]で[[nirodhadhamma|滅法]]である』と[[pajānāti|了知]]する。\\ | しかし何であれ[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたもの、それは[[anicca|無常]]で[[nirodhadhamma|滅法]]である』と[[pajānāti|了知]]する。\\ | ||
| そこに[[ṭhiti|とどま]]った彼は、[[āsava|諸漏]]の[[khaya|尽滅]]に達する。\\ | そこに[[ṭhiti|とどま]]った彼は、[[āsava|諸漏]]の[[khaya|尽滅]]に達する。\\ | ||
| - | もしその[[dhamma|法]]の[[rāga|貪]]により、その[[dhamma|法]]の[[nandati|喜び]]により[[āsava|諸漏]]の[[khaya|尽滅]]に達しなくても、[[orambhāgiya-saṃyojana|五下分結]]の[[parikkhaya|遍尽]]によって[[opapātika|化生者]]となり、そこで[[parinibbāna|般涅槃]]して、その[[loka|世界]]から還らざる[[dhamma|性質]]となる。\\ | + | もしその[[dhamma|法]]の[[rāga|貪]]により、その[[dhamma|法]]の[[nandati|喜び]]により[[āsava|諸漏]]の[[khaya|尽滅]]に達しなくても、[[orambhāgiya-saṃyojana|五下分結]]の[[parikkhaya|遍尽]]によって[[opapātika|化生者]]であり、そこで[[parinibbāna|般涅槃]]して、その[[loka|世界]]から還らざる[[dhamma|性質]]となる。\\ |
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| [[gahapati|居士]]よ、これもかの[[arahant|阿羅漢]]、[[sammāsambuddha|正等覚者]]、知り見る方である世尊によって告げられた一[[dhamma|法]]である。そこで比丘が[[appamāda|不放逸]]に熱心に自ら[[padhāna|勤め]]住するなら[[vimutti|解脱]]なき[[citta|心]]が[[vimutti|解脱]]し、[[parikkhaya|尽き果]]てない[[āsava|諸漏]]が[[parikkhaya|遍尽]]に至り、未達の無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような。\\ | [[gahapati|居士]]よ、これもかの[[arahant|阿羅漢]]、[[sammāsambuddha|正等覚者]]、知り見る方である世尊によって告げられた一[[dhamma|法]]である。そこで比丘が[[appamāda|不放逸]]に熱心に自ら[[padhāna|勤め]]住するなら[[vimutti|解脱]]なき[[citta|心]]が[[vimutti|解脱]]し、[[parikkhaya|尽き果]]てない[[āsava|諸漏]]が[[parikkhaya|遍尽]]に至り、未達の無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような。\\ | ||
| 行 33: | 行 33: | ||
| そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[vitakka|尋]]と[[vicāra|伺]]の[[vūpasama|寂静]]により、[[ajjhatta|内に]][[sampasādana|明浄]]ある … 中略 …\\ | そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[vitakka|尋]]と[[vicāra|伺]]の[[vūpasama|寂静]]により、[[ajjhatta|内に]][[sampasādana|明浄]]ある … 中略 …\\ | ||
| [[dutiyajhāna|第二禅]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | [[dutiyajhāna|第二禅]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | ||
| - | 彼はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | 彼は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『この[[dutiyajhāna|第二禅]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。 …\\ | 『この[[dutiyajhāna|第二禅]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。 …\\ | ||
| 無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような。\\ | 無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような。\\ | ||
| 行 39: | 行 39: | ||
| そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[pīti|喜悦]]の[[virāga|離貪]]により … 中略 …\\ | そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[pīti|喜悦]]の[[virāga|離貪]]により … 中略 …\\ | ||
| [[tatiyajhāna|第三禅]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | [[tatiyajhāna|第三禅]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | ||
| - | 彼はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | 彼は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『この[[tatiyajhāna|第三禅]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。 … 中略 …\\ | 『この[[tatiyajhāna|第三禅]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。 … 中略 …\\ | ||
| 無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような。\\ | 無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような。\\ | ||
| 行 45: | 行 45: | ||
| そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[sukha|楽]]の[[pahāna|断]]により、 … 中略 …\\ | そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[sukha|楽]]の[[pahāna|断]]により、 … 中略 …\\ | ||
| [[catutthajhāna|第四禅]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | [[catutthajhāna|第四禅]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | ||
| - | 彼はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | 彼は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『この[[catutthajhāna|第四禅]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。 …\\ | 『この[[catutthajhāna|第四禅]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。 …\\ | ||
| 無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような。\\ | 無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような。\\ | ||
| 行 52: | 行 52: | ||
| かくして上・下・横に、あらゆる方向に、あまねく全[[loka|世界]]に、広大・[[appamāṇa|無量]]の大いなる、[[vera|怨み]]なく[[vyābādha|加害]]なき、[[metta|慈しみ]]を伴う[[citta|心]]をもって、行き渡らせて住する。\\ | かくして上・下・横に、あらゆる方向に、あまねく全[[loka|世界]]に、広大・[[appamāṇa|無量]]の大いなる、[[vera|怨み]]なく[[vyābādha|加害]]なき、[[metta|慈しみ]]を伴う[[citta|心]]をもって、行き渡らせて住する。\\ | ||
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| - | 彼はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | 彼は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『この[[metta|慈]]による[[cetovimutti|心解脱]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。\\ | 『この[[metta|慈]]による[[cetovimutti|心解脱]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。\\ | ||
| しかし何であれ[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたもの、それは[[anicca|無常]]で[[nirodhadhamma|滅法]]である』と[[pajānāti|了知]]する。\\ | しかし何であれ[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたもの、それは[[anicca|無常]]で[[nirodhadhamma|滅法]]である』と[[pajānāti|了知]]する。\\ | ||
| そこに[[ṭhiti|とどま]]った彼は、 …中略…\\ | そこに[[ṭhiti|とどま]]った彼は、 …中略…\\ | ||
| 無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような。\\ | 無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような。\\ | ||
| - | そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[karuṇā|憐憫]]ある[[citta|心]]をもって … 中略 …\\ | + | そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[karuṇā|憐憫]]を伴う[[citta|心]]をもって … 中略 …\\ |
| [[muditā|喜]][[citta|心]]ある[[citta|心]]をもって …中略…\\ | [[muditā|喜]][[citta|心]]ある[[citta|心]]をもって …中略…\\ | ||
| [[upekkhati|平静]]なる[[citta|心]]により一方向に行き渡らせ住する。そのように第二(方向)に、そのように第三(方向)に、そのように第四(方向)に。\\ | [[upekkhati|平静]]なる[[citta|心]]により一方向に行き渡らせ住する。そのように第二(方向)に、そのように第三(方向)に、そのように第四(方向)に。\\ | ||
| かくして上・下・横に、あらゆる方向に、あまねく全[[loka|世界]]に、広大・[[appamāṇa|無量]]の大いなる、[[vera|怨み]]なく[[vyābādha|加害]]なき、[[upekkhati|平静]]なる[[citta|心]]により、行き渡らせて住する。\\ | かくして上・下・横に、あらゆる方向に、あまねく全[[loka|世界]]に、広大・[[appamāṇa|無量]]の大いなる、[[vera|怨み]]なく[[vyābādha|加害]]なき、[[upekkhati|平静]]なる[[citta|心]]により、行き渡らせて住する。\\ | ||
| - | 彼はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | 彼は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『この[[upekkhati|捨]]の[[cetovimutti|心解脱]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。\\ | 『この[[upekkhati|捨]]の[[cetovimutti|心解脱]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。\\ | ||
| しかし何であれ[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたもの、それは[[anicca|無常]]で[[nirodhadhamma|滅法]]である』と[[pajānāti|了知]]する。\\ | しかし何であれ[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたもの、それは[[anicca|無常]]で[[nirodhadhamma|滅法]]である』と[[pajānāti|了知]]する。\\ | ||
| 行 68: | 行 68: | ||
| そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[rūpa|色]][[saññā|想]]の完全なる[[samatikkama|超越]]により・[[paṭighasaññā|有対想]]の[[atthaṅgama|消滅]]により・種々[[saññā|想]]の不[[manasikāra|作意]]により『[[ākāsa|虚空]]は果てがない』という[[ākāsānañcāyatana|虚空無辺処]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[rūpa|色]][[saññā|想]]の完全なる[[samatikkama|超越]]により・[[paṭighasaññā|有対想]]の[[atthaṅgama|消滅]]により・種々[[saññā|想]]の不[[manasikāra|作意]]により『[[ākāsa|虚空]]は果てがない』という[[ākāsānañcāyatana|虚空無辺処]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | ||
| \\ | \\ | ||
| - | 彼はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | 彼は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『この[[ākāsānañcāyatana|虚空無辺処]]の[[samāpajjati|等至]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。\\ | 『この[[ākāsānañcāyatana|虚空無辺処]]の[[samāpajjati|等至]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。\\ | ||
| \\ | \\ | ||
| 行 76: | 行 76: | ||
| そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[ākāsānañcāyatana|虚空無辺処]]を完全に[[samatikkama|超越]]して、『[[viññāṇa|識]]は果てがない』という、[[viññāṇañcāyatana|識無辺処]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[ākāsānañcāyatana|虚空無辺処]]を完全に[[samatikkama|超越]]して、『[[viññāṇa|識]]は果てがない』という、[[viññāṇañcāyatana|識無辺処]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | ||
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| - | 彼はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | 彼は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『この[[viññāṇañcāyatana|識無辺処]]の[[samāpajjati|等至]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。\\ | 『この[[viññāṇañcāyatana|識無辺処]]の[[samāpajjati|等至]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。\\ | ||
| しかし何であれ[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたもの、それは[[anicca|無常]]で[[nirodhadhamma|滅法]]である』と[[pajānāti|了知]]する。\\ | しかし何であれ[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたもの、それは[[anicca|無常]]で[[nirodhadhamma|滅法]]である』と[[pajānāti|了知]]する。\\ | ||
| 行 82: | 行 82: | ||
| 無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような。\\ | 無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような。\\ | ||
| そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[viññāṇañcāyatana|識無辺処]]を完全に[[samatikkama|超越]]して、『何もない』という[[ākiñcaññāyatana|無所有処]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | そしてさらに[[gahapati|居士]]よ、比丘は[[viññāṇañcāyatana|識無辺処]]を完全に[[samatikkama|超越]]して、『何もない』という[[ākiñcaññāyatana|無所有処]]を[[upasampajjati|成就]]して住する。\\ | ||
| - | 彼はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | 彼は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『この[[ākiñcaññāyatana|無所有処]]の[[samāpajjati|等至]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。\\ | 『この[[ākiñcaññāyatana|無所有処]]の[[samāpajjati|等至]]もまた、[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたものである。\\ | ||
| しかし何であれ[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたもの、それは[[anicca|無常]]で[[nirodhadhamma|滅法]]である』と[[pajānāti|了知]]する。\\ | しかし何であれ[[abhisaṅkharoti|為作]]され[[abhisañceteti|為思念]]されたもの、それは[[anicca|無常]]で[[nirodhadhamma|滅法]]である』と[[pajānāti|了知]]する。\\ | ||
| そこに[[ṭhiti|とどま]]った彼は、[[āsava|諸漏]]の[[khaya|尽滅]]に達する。\\ | そこに[[ṭhiti|とどま]]った彼は、[[āsava|諸漏]]の[[khaya|尽滅]]に達する。\\ | ||
| - | もしその[[dhamma|法]]の[[rāga|貪]]により、その[[dhamma|法]]の[[nandati|喜び]]により[[āsava|諸漏]]の[[khaya|尽滅]]に達しなくても、[[orambhāgiya-saṃyojana|五下分結]]の[[parikkhaya|遍尽]]によって[[opapātika|化生者]]となり、そこで[[parinibbāna|般涅槃]]して、その[[loka|世界]]から還らざる[[dhamma|性質]]となる。\\ | + | もしその[[dhamma|法]]の[[rāga|貪]]により、その[[dhamma|法]]の[[nandati|喜び]]により[[āsava|諸漏]]の[[khaya|尽滅]]に達しなくても、[[orambhāgiya-saṃyojana|五下分結]]の[[parikkhaya|遍尽]]によって[[opapātika|化生者]]であり、そこで[[parinibbāna|般涅槃]]して、その[[loka|世界]]から還らざる[[dhamma|性質]]となる。\\ |
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| [[gahapati|居士]]よ、これもかの[[arahant|阿羅漢]]、[[sammāsambuddha|正等覚者]]、知り見る方である世尊によって告げられた一[[dhamma|法]]である。そこで比丘が[[appamāda|不放逸]]に熱心に自ら[[padhāna|勤め]]住するなら[[vimutti|解脱]]なき[[citta|心]]が[[vimutti|解脱]]し、[[parikkhaya|尽き果]]てない[[āsava|諸漏]]が[[parikkhaya|遍尽]]に至り、未達の無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような」と。\\ | [[gahapati|居士]]よ、これもかの[[arahant|阿羅漢]]、[[sammāsambuddha|正等覚者]]、知り見る方である世尊によって告げられた一[[dhamma|法]]である。そこで比丘が[[appamāda|不放逸]]に熱心に自ら[[padhāna|勤め]]住するなら[[vimutti|解脱]]なき[[citta|心]]が[[vimutti|解脱]]し、[[parikkhaya|尽き果]]てない[[āsava|諸漏]]が[[parikkhaya|遍尽]]に至り、未達の無上の[[yogakkhema|瑜伽安穏]]にたどり着くような」と。\\ | ||
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