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| - | 世尊はこうおっしゃった。\\ | + | 世尊はこう言われた。\\ |
| 『[[pāṇātipāta|殺生]]なきによって[[pāṇātipāta|殺生]]が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | 『[[pāṇātipāta|殺生]]なきによって[[pāṇātipāta|殺生]]が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | ||
| - | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 「それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[pāṇātipāta|殺生]]者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | 「それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[pāṇātipāta|殺生]]者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | ||
| - | もし私が[[pāṇātipāta|殺生]]者となるならば、[[pāṇātipāta|殺生]]に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[pāṇātipāta|殺生]]に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[pāṇātipāta|殺生]]に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が予期されるだろう。\\ | + | もし私が[[pāṇātipāta|殺生]]者となるならば、[[pāṇātipāta|殺生]]に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[pāṇātipāta|殺生]]に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[pāṇātipāta|殺生]]に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が[[pāṭikaṅkha|予期]]されるだろう。\\ |
| \\ | \\ | ||
| しかしこの[[pāṇātipāta|殺生]]というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | しかしこの[[pāṇātipāta|殺生]]というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | ||
| 行 15: | 行 15: | ||
| このようにそれが説かれたが、それはこれに[[paṭicca|縁りて]]説かれたのである。\\ | このようにそれが説かれたが、それはこれに[[paṭicca|縁りて]]説かれたのである。\\ | ||
| 『与えられたものを[[ādāna|取ること]]によって[[adinnādāna|盗み]]が[[pahāna|断]]じられるべき』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | 『与えられたものを[[ādāna|取ること]]によって[[adinnādāna|盗み]]が[[pahāna|断]]じられるべき』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | ||
| - | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[adinnādāna|盗む]]者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | 『それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[adinnādāna|盗む]]者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | ||
| - | もし私が[[adinnādāna|盗む]]者となるならば、[[adinnādāna|盗み]]に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[adinnādāna|盗み]]に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[adinnādāna|盗み]]に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が予期されるだろう。\\ | + | もし私が[[adinnādāna|盗む]]者となるならば、[[adinnādāna|盗み]]に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[adinnādāna|盗み]]に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[adinnādāna|盗み]]に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が[[pāṭikaṅkha|予期]]されるだろう。\\ |
| \\ | \\ | ||
| しかしこの[[adinnādāna|盗み]]というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | しかしこの[[adinnādāna|盗み]]というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | ||
| 行 26: | 行 26: | ||
| \\ | \\ | ||
| 『[[sacca|真実]][[vācā|語]]によって[[musā|虚偽]][[vācā|語]]が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | 『[[sacca|真実]][[vācā|語]]によって[[musā|虚偽]][[vācā|語]]が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | ||
| - | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[musā|虚偽]]を語る者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | 『それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[musā|虚偽]]を語る者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | ||
| - | もし私が[[musā|虚偽]]を語る者となるならば、[[musā|虚偽]]語に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[musā|虚偽]]語に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[musā|虚偽]]語に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が予期されるだろう。\\ | + | もし私が[[musā|虚偽]]を語る者となるならば、[[musā|虚偽]]語に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[musā|虚偽]]語に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[musā|虚偽]]語に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が[[pāṭikaṅkha|予期]]されるだろう。\\ |
| \\ | \\ | ||
| しかしこの[[musā|虚偽]]語というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | しかしこの[[musā|虚偽]]語というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | ||
| 行 37: | 行 37: | ||
| \\ | \\ | ||
| 『[[pisuṇavācā|両舌]]なきによって[[pisuṇavāca|両舌語]]が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | 『[[pisuṇavācā|両舌]]なきによって[[pisuṇavāca|両舌語]]が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | ||
| - | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[pisuṇavācā|両舌]]を語る者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | 『それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[pisuṇavācā|両舌]]を語る者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | ||
| - | もし私が[[pisuṇavācā|両舌]]を語る者となるならば、[[pisuṇavāca|両舌語]]に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[pisuṇavāca|両舌語]]に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[pisuṇavāca|両舌語]]に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が予期されるだろう。\\ | + | もし私が[[pisuṇavācā|両舌]]を語る者となるならば、[[pisuṇavāca|両舌語]]に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[pisuṇavāca|両舌語]]に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[pisuṇavāca|両舌語]]に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が[[pāṭikaṅkha|予期]]されるだろう。\\ |
| \\ | \\ | ||
| しかしこの[[pisuṇavāca|両舌語]]というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | しかしこの[[pisuṇavāca|両舌語]]というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | ||
| 行 47: | 行 47: | ||
| \\ | \\ | ||
| 『[[lobha|貪]]りと[[gedha|貪求]]なきによって[[lobha|貪]]りと[[gedha|貪求]]が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | 『[[lobha|貪]]りと[[gedha|貪求]]なきによって[[lobha|貪]]りと[[gedha|貪求]]が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | ||
| - | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 「それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[lobha|貪]]り[[gedha|貪求]]者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | 「それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[lobha|貪]]り[[gedha|貪求]]者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | ||
| - | もし私が[[lobha|貪]]り[[gedha|貪求]]者となるならば、[[lobha|貪]]りと[[gedha|貪求]]に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[lobha|貪]]りと[[gedha|貪求]]に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[lobha|貪]]りと[[gedha|貪求]]に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が予期されるだろう。\\ | + | もし私が[[lobha|貪]]り[[gedha|貪求]]者となるならば、[[lobha|貪]]りと[[gedha|貪求]]に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[lobha|貪]]りと[[gedha|貪求]]に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[lobha|貪]]りと[[gedha|貪求]]に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が[[pāṭikaṅkha|予期]]されるだろう。\\ |
| \\ | \\ | ||
| しかしこの[[lobha|貪]]りと[[gedha|貪求]]というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | しかしこの[[lobha|貪]]りと[[gedha|貪求]]というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | ||
| 行 57: | 行 57: | ||
| \\ | \\ | ||
| 『そしりと争論なきによってそしりと争論が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | 『そしりと争論なきによってそしりと争論が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | ||
| - | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私がそしる者と争論者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | 『それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私がそしる者と争論者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | ||
| - | もし私がそしる者と争論者となるならば、そしりと争論に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、そしりと争論に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、そしりと争論に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が予期されるだろう。\\ | + | もし私がそしる者と争論者となるならば、そしりと争論に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、そしりと争論に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、そしりと争論に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が[[pāṭikaṅkha|予期]]されるだろう。\\ |
| \\ | \\ | ||
| しかしこのそしりと争論というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | しかしこのそしりと争論というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | ||
| 行 67: | 行 67: | ||
| \\ | \\ | ||
| 『[[kodha|怒り]]と[[upāyāsa|悩み]]なきによって[[kodha|怒り]]と[[upāyāsa|悩み]]が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | 『[[kodha|怒り]]と[[upāyāsa|悩み]]なきによって[[kodha|怒り]]と[[upāyāsa|悩み]]が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | ||
| - | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[kodha|怒り]][[upāyāsa|悩]]む者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | 『それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[kodha|怒り]][[upāyāsa|悩]]む者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | ||
| - | もし私が[[kodha|怒り]][[upāyāsa|悩]]む者となるならば、[[kodha|怒り]]と[[upāyāsa|悩み]]に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[kodha|怒り]]と[[upāyāsa|悩み]]に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[kodha|怒り]]と[[upāyāsa|悩み]]に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が予期されるだろう。\\ | + | もし私が[[kodha|怒り]][[upāyāsa|悩]]む者となるならば、[[kodha|怒り]]と[[upāyāsa|悩み]]に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[kodha|怒り]]と[[upāyāsa|悩み]]に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[kodha|怒り]]と[[upāyāsa|悩み]]に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が[[pāṭikaṅkha|予期]]されるだろう。\\ |
| \\ | \\ | ||
| しかしこの[[kodha|怒り]]と[[upāyāsa|悩み]]というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | しかしこの[[kodha|怒り]]と[[upāyāsa|悩み]]というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | ||
| 行 77: | 行 77: | ||
| \\ | \\ | ||
| 『[[atimāna|過慢]]なきによって[[atimāna|過慢]]が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | 『[[atimāna|過慢]]なきによって[[atimāna|過慢]]が[[pahāna|断]]じられるべきである』と、このようにこれが説かれたが、しかしこれは何に[[paṭicca|縁りて]]説かれたのか?\\ | ||
| - | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ | + | [[gahapati|居士]]よ、ここに[[ariyasāvaka|聖弟子]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\ |
| 『それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[atimāna|過慢]]ある者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | 『それらの[[saṃyojana|結縛]]ゆえに私が[[atimāna|過慢]]ある者となるような、それらの[[saṃyojana|諸結縛]]の[[pahāna|断]]と[[samucchindati|断絶]]のために、私は[[paṭipadā|行道]]する者である。\\ | ||
| - | もし私が[[atimāna|過慢]]ある者となるならば、[[atimāna|過慢]]に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[atimāna|過慢]]に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[atimāna|過慢]]に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が予期されるだろう。\\ | + | もし私が[[atimāna|過慢]]ある者となるならば、[[atimāna|過慢]]に[[paccaya|縁りて]][[atta|自己]]も私を責め、[[atimāna|過慢]]に[[paccaya|縁りて]][[viññū|識者]]たちも随知して私を咎め、[[atimāna|過慢]]に[[paccaya|縁りて]][[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に[[duggati|悪趣]]が[[pāṭikaṅkha|予期]]されるだろう。\\ |
| しかしこの[[atimāna|過慢]]というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | しかしこの[[atimāna|過慢]]というもの、これこそが[[saṃyojana|結縛]]であり、[[nīvaraṇa|蓋]]である。\\ | ||
| そして[[atimāna|過慢]]に[[paccaya|縁りて]][[āsava|諸漏]]、困惑、[[pariḷāha|熱悩]]が[[uppajjati|生じる]]が、[[atimāna|過慢]]から離れた者にはそのようなそれらの[[āsava|諸漏]]、困惑、[[pariḷāha|熱悩]]はない。\\ | そして[[atimāna|過慢]]に[[paccaya|縁りて]][[āsava|諸漏]]、困惑、[[pariḷāha|熱悩]]が[[uppajjati|生じる]]が、[[atimāna|過慢]]から離れた者にはそのようなそれらの[[āsava|諸漏]]、困惑、[[pariḷāha|熱悩]]はない。\\ | ||
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