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  [[hetu|因]]なく、[[paccaya|縁]]なく[[satta|衆生]]は[[visuddhi|清浄]]となる。\\  [[hetu|因]]なく、[[paccaya|縁]]なく[[satta|衆生]]は[[visuddhi|清浄]]となる。\\
  [[bala|力]]はなく、[[vīriya|精進]]はなく、人の[[thāma|根気]]はなく、人の[[parakkama|奮闘]]はない。\\  [[bala|力]]はなく、[[vīriya|精進]]はなく、人の[[thāma|根気]]はなく、人の[[parakkama|奮闘]]はない。\\
- あらゆる[[satta|衆生]]、あらゆる[[pāṇa|生命]]、あらゆる[[bhava|存在]]、あらゆる[[jīva|命]]は[[vasa|自在]]なく、[[bala|力]]なく、[[vīriya|精進]]なく、[[niyata|定め]](さだめ)により出会い変わる本性あり、ただ六種の[[jāti|生まれ]]のなかで[[sukhadukkha|苦楽]]を[[paṭisaṃvedayati|体験]]する。』という彼らにはこれが予期されるだろう。\\+ あらゆる[[satta|衆生]]、あらゆる[[pāṇa|生命]]、あらゆる[[bhava|存在]]、あらゆる[[jīva|命]]は[[vasa|自在]]なく、[[bala|力]]なく、[[vīriya|精進]]なく、[[niyata|定め]](さだめ)により出会い変わる本性あり、ただ六種の[[jāti|生まれ]]のなかで[[sukhadukkha|苦楽]]を[[paṭisaṃvedayati|体験]]する。』という彼らにはこれが[[pāṭikaṅkha|予期]]されるだろう。\\
  彼らは、およそこの[[kāyika|身の]][[sucarita|善行為]]、語の[[sucarita|善行為]]、[[mano|意]]の[[sucarita|善行為]]、\\  彼らは、およそこの[[kāyika|身の]][[sucarita|善行為]]、語の[[sucarita|善行為]]、[[mano|意]]の[[sucarita|善行為]]、\\
  これら三つの[[kusala dhamma|善法]]を回避して、およそこの[[kāyika|身の]][[duccarita|悪行為]]、語の[[duccarita|悪行為]]、[[mano|意]]の[[duccarita|悪行為]]、\\  これら三つの[[kusala dhamma|善法]]を回避して、およそこの[[kāyika|身の]][[duccarita|悪行為]]、語の[[duccarita|悪行為]]、[[mano|意]]の[[duccarita|悪行為]]、\\
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  このように[[micchādiṭṭhi|邪見]]に[[paccaya|縁りて]]、彼にはこれら複数の[[pāpa|悪しき]][[akusala|不善]][[dhamma|諸法]]が[[sambhava|生成]]する。\\  このように[[micchādiṭṭhi|邪見]]に[[paccaya|縁りて]]、彼にはこれら複数の[[pāpa|悪しき]][[akusala|不善]][[dhamma|諸法]]が[[sambhava|生成]]する。\\
  \\  \\
- [[gahapati|居士]]たちよ、そのとき、[[viññū|識者]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\+ [[gahapati|居士]]たちよ、そのとき、[[viññū|識者]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\
 『もし[[hetu|因]]がないなら、このように現存するこの人物は、[[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より、[[atta|自己]]を平穏になすだろう。\\ 『もし[[hetu|因]]がないなら、このように現存するこの人物は、[[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より、[[atta|自己]]を平穏になすだろう。\\
  もし[[hetu|因]]があるなら、このように現存するこの人物は、[[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に、[[apāya|苦界]]・[[duggati|悪趣]]・[[vinipāta|堕処]]・[[niraya|地獄]]に[[upapajjati|再生]]するだろう。\\  もし[[hetu|因]]があるなら、このように現存するこの人物は、[[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に、[[apāya|苦界]]・[[duggati|悪趣]]・[[vinipāta|堕処]]・[[niraya|地獄]]に[[upapajjati|再生]]するだろう。\\
行 61: 行 61:
  もし[[hetu|因]]があるなら、このように現存するこの人物は、双方で不運をつかむ者となる、\\  もし[[hetu|因]]があるなら、このように現存するこの人物は、双方で不運をつかむ者となる、\\
  (すなわち)[[diṭṭhadhamma|現法]]において[[viññū|識者]]たちにとって咎められるべきこと、そして[[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に、[[apāya|苦界]]・[[duggati|悪趣]]・[[vinipāta|堕処]]・[[niraya|地獄]]に[[upapajjati|再生]]すること。\\  (すなわち)[[diṭṭhadhamma|現法]]において[[viññū|識者]]たちにとって咎められるべきこと、そして[[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に、[[apāya|苦界]]・[[duggati|悪趣]]・[[vinipāta|堕処]]・[[niraya|地獄]]に[[upapajjati|再生]]すること。\\
- このように彼には、この[[apaṇṇaka|議論の余地な]]き[[dhamma|法]]が悪く成し遂げられ[[samādiyati|受持]]され、一方にわたり[[ṭhiti|とどま]]り、[[kusala|善なる]]道理を[[riñcati|空虚]]にする。\\+ このように彼には、この[[apaṇṇaka|議論の余地な]]き[[dhamma|法]]が悪く成し遂げられ[[samādiyati|受持]]され、一方にり[[ṭhiti|とどま]]り、[[kusala|善なる]]道理を[[riñcati|空虚]]にする。\\
  そのうちで、[[gahapati|居士]]たちよ、このような論者、このような[[diṭṭhi|見者]]であるかの沙門・婆羅門たち、\\  そのうちで、[[gahapati|居士]]たちよ、このような論者、このような[[diṭṭhi|見者]]であるかの沙門・婆羅門たち、\\
 『[[satta|衆生]]の[[saṃkilissati|汚染]]のために[[hetu|因]]があり、[[paccaya|縁]]がある。\\ 『[[satta|衆生]]の[[saṃkilissati|汚染]]のために[[hetu|因]]があり、[[paccaya|縁]]がある。\\
行 68: 行 68:
  [[hetu|因]]あって、[[paccaya|縁]]あって[[satta|衆生]]は[[visuddhi|清浄]]となる。\\  [[hetu|因]]あって、[[paccaya|縁]]あって[[satta|衆生]]は[[visuddhi|清浄]]となる。\\
  [[bala|力]]があり、[[vīriya|精進]]があり、人の[[thāma|根気]]があり、人の[[parakkama|奮闘]]がある。\\  [[bala|力]]があり、[[vīriya|精進]]があり、人の[[thāma|根気]]があり、人の[[parakkama|奮闘]]がある。\\
- あらゆる[[satta|衆生]]、あらゆる[[pāṇa|生命]]、あらゆる[[bhava|存在]]、あらゆる[[jīva|命]]は[[vasa|自在]]なく、[[bala|力]]なく、[[vīriya|精進]]なく、[[niyata|定め]](さだめ)により出会い変わる本性あり、ただ六種の[[jāti|生まれ]]のなかで[[sukhadukkha|苦楽]]を[[paṭisaṃvedayati|体験]]するのではない。』という彼らにはこれが予期されるだろう。\\+ あらゆる[[satta|衆生]]、あらゆる[[pāṇa|生命]]、あらゆる[[bhava|存在]]、あらゆる[[jīva|命]]は[[vasa|自在]]なく、[[bala|力]]なく、[[vīriya|精進]]なく、[[niyata|定め]](さだめ)により出会い変わる本性あり、ただ六種の[[jāti|生まれ]]のなかで[[sukhadukkha|苦楽]]を[[paṭisaṃvedayati|体験]]するのではない。』という彼らにはこれが[[pāṭikaṅkha|予期]]されるだろう。\\
  彼らは、およそこの[[kāyika|身の]][[duccarita|悪行為]]、語の[[duccarita|悪行為]]、[[mano|意]]の[[duccarita|悪行為]]、\\  彼らは、およそこの[[kāyika|身の]][[duccarita|悪行為]]、語の[[duccarita|悪行為]]、[[mano|意]]の[[duccarita|悪行為]]、\\
  これら三つの[[akusala|不善]][[dhamma|諸法]]を回避して、およそこの[[kāyika|身の]][[sucarita|善行為]]、語の[[sucarita|善行為]]、[[mano|意]]の[[sucarita|善行為]]、\\  これら三つの[[akusala|不善]][[dhamma|諸法]]を回避して、およそこの[[kāyika|身の]][[sucarita|善行為]]、語の[[sucarita|善行為]]、[[mano|意]]の[[sucarita|善行為]]、\\
行 90: 行 90:
  このように[[sammadiṭṭhi|正見]]に[[paccaya|縁りて]]、彼にはこれら複数の[[kusala dhamma|善法]]が[[sambhava|生成]]する。\\  このように[[sammadiṭṭhi|正見]]に[[paccaya|縁りて]]、彼にはこれら複数の[[kusala dhamma|善法]]が[[sambhava|生成]]する。\\
  \\  \\
- [[gahapati|居士]]たちよ、そのとき、[[viññū|識者]]はこのように[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\+ [[gahapati|居士]]たちよ、そのとき、[[viññū|識者]]は、かく[[paṭisañcikkhati|熟慮]]する、\\
 『もし[[hetu|因]]があるなら、このように現存するこの人物は、[[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に、[[suggati|善趣]]である天界に[[upapajjati|再生]]するだろう。\\ 『もし[[hetu|因]]があるなら、このように現存するこの人物は、[[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に、[[suggati|善趣]]である天界に[[upapajjati|再生]]するだろう。\\
  しかし、よしんば[[hetu|因]]がなく、かの現存する沙門、婆羅門たちの[[vācā|言葉]]が[[sacca|真実]]だとしても、\\  しかし、よしんば[[hetu|因]]がなく、かの現存する沙門、婆羅門たちの[[vācā|言葉]]が[[sacca|真実]]だとしても、\\
行 97: 行 97:
  もし[[hetu|因]]があるなら、このように現存するこの人物は、双方で[[bhadda|幸運]]をつかむ者となる、\\  もし[[hetu|因]]があるなら、このように現存するこの人物は、双方で[[bhadda|幸運]]をつかむ者となる、\\
  (すなわち)[[diṭṭhadhamma|現法]]において[[viññū|識者]]たちにとって称賛されるべきこと、そして[[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に、[[suggati|善趣]]である天界に[[upapajjati|再生]]すること。\\  (すなわち)[[diṭṭhadhamma|現法]]において[[viññū|識者]]たちにとって称賛されるべきこと、そして[[kāyika|身の]][[bheda|崩壊]]より死後に、[[suggati|善趣]]である天界に[[upapajjati|再生]]すること。\\
- このように彼には、この[[apaṇṇaka|議論の余地な]]き[[dhamma|法]]がよく成し遂げられ[[samādiyati|受持]]され、双方にわたり[[ṭhiti|とどま]]り、[[akusala|不善]]な道理を[[riñcati|空虚]]にする。\\+ このように彼には、この[[apaṇṇaka|議論の余地な]]き[[dhamma|法]]がよく成し遂げられ[[samādiyati|受持]]され、双方にり[[ṭhiti|とどま]]り、[[akusala|不善]]な道理を[[riñcati|空虚]]にする。\\
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mn60_3.1759549377.txt.gz · 最終更新: by h1roemon