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空なる, 空無の, 空 empty; void
日本人にとっては、般若心経等でなじみのある言葉です。しかしブッダは、後代大乗哲学(特に Nāgārjuna 以降)の形而上学的“空” の概念では、使われていません。
下記の用例から見て、この語の意味は単に”空(から)の、中に何もない、からっぽ、皆無”という意味で使用されています。(例:suññāgārāni:空き家[複])
我については、特によく私、私のもの、我がないという意味で使われています。
この言葉は具格支配で使われます。例えばsn41.7では、『これは我という点で、我所という点で空である。』というように使われています。(mn11も)。
mn71の用例を見ると、具格支配の用法がわかります。”より”と訳すのではなく”~の点で空である”と訳すべきです。
類語 suññata:空性、riñcati:空虚、ākāsa:虚空、vehāsa:空中、mogha:虚妄、愚か
| ‘‘Sīlavatāvuso, koṭṭhika, bhikkhunā pañcupādānakkhandhā aniccato dukkhato rogato gaṇḍato sallato aghato ābādhato parato palokato suññato anattato yoniso manasi kātabbā. | 「友コッティカよ、持戒の比丘により五取蘊が無常、苦、病、腫瘍、矢、悲痛、患い、他のもの、壊敗、空、無我として如理作意されるべきです。 |
| Evametesaṃ, bhikkhave, suttantānaṃ tathāgatabhāsitānaṃ gambhīrānaṃ gambhīratthānaṃ lokuttarānaṃ suññatappaṭisaṃyuttānaṃ antaradhānaṃ bhavissati. | 比丘たちよ、そのように如来によって語られた、深遠で、意味も深遠であり、出世間の、空性に関連したこれらの経の消失があるでしょう。 |
| ‘‘Gambhīrarūpe bahubherave vane, | 「ぞっとするもの多き 深遠な姿の森で |
| Suññaṃ araññaṃ vijanaṃ vigāhiya; | 空なる無人の林に入って |
| Aniñjamānena ṭhitena vaggunā, | 見事に動かずにとどまっている |
●このお経は、sn35.69、sn35.80とあわせて考えるとよいと思います。
| ‘‘‘suñño loko, suñño loko’ti, bhante, vuccati. | 「尊者よ、『空なる世間、空なる世間』と言われます。 |
| Kittāvatā nu kho, bhante, suñño lokoti vuccatī’’ti? | 尊者よ、いったい何をもって空なる世間と呼ばれますか?」と。 |
| ‘‘Yasmā ca kho, ānanda, suññaṃ attena vā attaniyena vā tasmā suñño lokoti vuccati. | 「アーナンダよ、我という点で、我所という点で空であるので、それゆえ空なる世間と呼ばれます。 |
| Etāni, bhikkhave, rukkhamūlāni, etāni suññāgārāni. | 比丘たちよ、これらの木の根元、これらの空き家があります。 |
| Jhāyatha, bhikkhave, mā pamādattha; | 比丘たちよ、禅をなしなさい。放逸となるなかれ。 |
| So passeyya suññaṃ gāmaṃ. | 彼は空の村を見つけます。 |
| Yaññadeva gharaṃ paviseyya rittakaññeva paviseyya tucchakaññeva paviseyya suññakaññeva paviseyya. | 彼がどんな家に入ろうとも、入るのはただ空虚な(家)、入るのはただからっぽな(家)、入るのはただ空の(家)ばかりです。 |
| Sā kho pana akuppā cetovimutti suññā rāgena, suññā dosena, suññā mohena. | また、その揺るぎなき心解脱は、貪という点で空であり、瞋という点で空であり、痴という点で空です。 |
mn11:「比丘たちよ、ここだけに沙門、ここに第二の沙門、ここに第三の沙門、ここに第四の沙門がおり、沙門以外による異説は空(空虚)であると。」
mn71:「尊者ゴータマよ、そうならば、その異教の処は天に行く者さえ空なのですか?」と。
「ヴァッチャよ、そのように、その異教の処は天に行く者さえ空である」と。